独身女性、一戸建てを買う。

新築一戸建てを購入したはなしを徒然なるままに。

「終わり良ければすべて良し」について考えてみる。

終わりよければ、すべて良し

って、非常に夢のある言葉ですよね。

 

 

途中経過がどうであれ、最後が「良い」結果になっていれば合格!みたいな。

 

 

これに対して「いや、中身の方が重要だ。結果よりも内容だ」みたいなことも言われたりするわけですけど。こっちの方は、例えばまあ部活の試合で負けてしまったときなんかに教員が生徒に対して掛ける言葉としてメジャーですね。それに対して生徒も「みんなと頑張っていい思い出になりました」とかなんとか言っちゃったりしてね。

 

 

まあ、この部活の例っていうのは、結局のところ「目的」あるいは「結果」を何に定めるのかっていう問題なんですね。

 

 

つまり、この場合の目的というのは2つあって。

 

ひとつは、「みんなで協力して頑張る」という行為そのもの。積み重ねてきた時間がすでに目的であり、すでに為されており、引退試合で完結した。

 

もうひとつは、「試合に勝つ」という目に見えるもの。

 

本来、両方手に入れられればそれが勿論いちばん良いわけです。しかし、この場合、はじめから前者を「目的」にするってことはあんまりない。だからまあ、誰もが後者を第一の目的に据えるわけです。

 

 

つまり、たいしてがんばりもせず、試合にも負けたっていう人にとっては、両方の目的を達することができないのです。

 

 

これにたいして、非常にまれなパターンではありますが、たいしてがんばりもしないのに、試合には勝てた、という人。これはどうなんでしょう?

 

 

世間ではこの状態こそを「終わり良ければすべて良し」として認識しているような気がします。本人の心の充足度合いはさて置けば、これもひとつの「結果」を手にいれたという意味では、まあ成功しているでしょう。でも、楽して目的を達成してしまったという教訓を手にいれたことによって、今後あらゆる物事に対して無気力化する可能性もあります。そういう意味では、両方手に入れられなかった人のほうが、「あ、頑張らなきゃだめだ」っていう学びを手に入れるかもしれず、その結果次の局面では成功をおさめるかもしれません。いやあ人間じつに塞翁が馬ですな。

 

 

 

いずれにせよ、人生において様々な局面で「終わり」は出現します。

受験勉強、会社のプロジェクト、恋愛、子育て…。エトセトラエトセトラ。

 

 

でも究極の終わりは「死」ですね。

 

 

だからこそ、今現在満たされていないような状況であっても、死ぬまでには事態は好転すんじゃねーかっていう一縷の望みを繋ぎ止めて置くことができるんですね。

だって、「終わり」=「死」がよければすべて良しなんだから。

 

 

これは、希望の持てる言葉。

 オラ、ワクワクしてきたぞ。

 

 

でも、逆に考えるとね、

「最後がダメだったら、ぜんぶダメなの?」

っていう疑問もある。

 

例えば

 

容姿端麗に生まれた女性が、お金持ちの両親に愛され、兄弟に恵まれ、たくさんの友人に囲まれ、異性には常に優しく接してもらえて、それはそれは幸せな半生を送ってきたけれど、突如父親の会社が倒産し、夫に浮気され、子供は重度の障害をもって生まれ、自分の容姿はかつての美しさを失い、すっかり老けたおばさんに、みたいな感じだったら、それってどうなんでしょう?

 

 

人生の前半にかなりの幸せを先取りしているから、平均よりも、手に入れた幸せの質量は多いと思うんだ。

 

 

でも、不思議と「そうなりたい」とは思わないよね。

 

 

そう考えると、人生の前半戦に大して幸せじゃないっていうのは、大逆転の可能性もそれだけ高いってことなんじゃね??

 

 

わたしは、その可能性にかけたいな。

その可能性を信じることが、生きる力になってるのかなって思うんだ。