アラサー独身女性の頭の中

アラサー独身女が日々感じていることを書きます。

年をとったなあと思う瞬間

わたしが最近年をとったなあと思う瞬間。

 

それは、ウインドウショッピングの時間を「もったいない」と感じ始めたことだ。

 

昔は、時間は無限にあった。

だらだらとなにも買わずに、ただひたすらにいろいろな可愛いもの、きれいなものを見て、手にとり、戻してはまた歩く、なんていう行為を「無駄」だなんて感じたこともなかった。

 

買い物とは、そういうふうに楽しんでするものだと思っていた。そういう時間を楽しんでいた。

 

 

しかし、最近は雑貨屋にしろ百貨店にしろ駅ビルにしろ、単に「見て歩く」というのが、とてつもなく無駄な行為に思えてきた。

 

 

そういうときの時間は矢のように流れていくし、必ずやなにかしら買ってしまうし、足は疲れるし、体力は消耗するしで、とんと気が向かなくなった。

 

 

こういう自分の変化に気付いたとき、年をとったなあと感じた。

 

単純に、大人になったとも言えるかもしれない。

 

わたしがまだ大学生だったころ、世界はきらびやかなものたちで満ちていた。知らないものばかりだった。手の届かないものばかりだった。手にいれると、自分になにか変化が起こるんじゃないか。そんなふうに、期待と夢を抱かせてくれるアイテムが、世界のそここに溢れていた。

 

そうして、いつのまにか32歳になったわたしは、豊かではないにせよ、そこそこの財力を身につけた。

 

いまなら、わりとなんでも買えてしまう。

原宿、新宿、頑張れば銀座もどんとこいだ。

 

でも、皮肉にも、32歳のわたしはもうそんなにはモノに執着しなくなっていた。

 

モノはモノでしかない。

 

そして、わたしはわたしでしかない。

それ以上でもそれ以下でもない。

 

モノは、お金を払いさえすれば誰でも手にいれることができるのだ。

 

そんなふうに、

 

かつて、若かったわたしの目の前に立ちはだかっていた世間というベルリンの壁並みに高かった敷居は、どんどん低くなっていた。壁が姿を変えたのではなく、わたしが大きくなったのだ。

 

モノは張りぼてである。

それは、お金さえ払えば誰でも手に入れられるのだ。

 

エルメスやヴィトンは人の価値ではない。

早稲田や慶応がその人の価値ではないのと同じだ。

 

 

まあ、ハイブランド早慶に憧れたことはないけどな。

 

 

トリス濃いめのハイボールを飲みながら。

 
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